画像出典:IMDb-One Battle After Another
目次
概要
元革命家の父親が娘を救出するために奔走する物語。
監督は『リコリス・ピザ』のポール・トーマス・アンダーソン。
出演は『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』のレオナルド・ディカプリオ、『アスファルト・シティ』のショーン・ペン、『ザ・ザ・コルダのフェニキア計画』のベニチオ・デル・トロ、ドラマ版『推定無罪』のチェイス・インフィニティなど。
前置きが長い
まずメインのストーリーに入るまでが長いように感じました。この映画の物語はウィラ(チェイス・インフィニティ)が成長してから本格的に始動するので、ボブ(レオナルド・ディカプリオ)とパーフィディア(テヤナ・テイラー)が革命家として活躍していた時期の描写は手短に済ませるべきだったと思います。
特に黒人警官を射殺してしまったパーフィディアたちが逃走するカーチェイスシーンは不要でしょう。ここでは「パーフィディアが警察に逮捕された」という展開を描写すれば事足りるのです。むしろカーチェイスは物語が動き出した先の後半まで取っておくべきだったと思います。
それとこれは些細な事柄ですが、タイトルを出すタイミングが謎でした。ボブたちが銀行に爆弾を仕掛けに行くシーンでタイトルが表れますが、なぜここなのでしょうか。ボブがナレーションでと”one battle after another”タイトルを口に出すからでしょうか。しかしこの場面は物語の区切りとなっているわけではないのですから、ボブが幼い娘を連れて妻の実家を出発するシーンで出す方が適切ではないでしょうか。
無駄な手順が多い
ストーリー全体を振り返っても、「本当に必要だったのだろうか」と思う展開が目立ちました。
例えば物語の中盤でボブは一度警察に捕まってしまいます。しかしその後はセンセイ(ベニチオ・デル・トロ)の手引きによって、あっという間に逃亡してしまいます。つまりボブが捕まらなかったとしても、映画の大筋に変化は無いわけです。
また娘のウィラはデアンドラ(レジーナ・ホール)の手引きで逃走して教会に匿われますが、これまたすぐにロックジョー(ショーン・ペン)たちに捕まってしまいます。それなら最初からダンスパーティー会場で捕まったという展開でも問題はないでしょう。修道女たちというキャラクターを紹介する意味があったのかもしれませんが、この修道女たちもロックジョーたちに捕まった後は登場しません。なのでこのキャラクターの存在意義すらも怪しくなってきます。
さらにクライマックスでロックジョーは「クリスマスの冒険者」が雇った殺し屋に顔面を撃たれ、乗っていた車が大破します。誰が見ても死んでいるとしか思えませんが、実は生きていたことが判明します。しかし最終的にはやはり「クリスマスの冒険者」によって、毒ガスで殺害されます。
しかし結局「クリスマスの冒険者」たちによって始末されるのであれば、顔を撃たれた段階で死んだことにしても良かったはずです。あの唐突な死が映画の良いサプライズになっていたので非常にもったいない。ショーン・ペンに特殊メイクをさせてまで、ロックジョーをもう一度生き返らせる必然性が感じられませんでした。
このように二度手間としか思えないストーリー展開が散見され、これによって上映時間が無駄に引き延ばされたのではないかと思われます。もしかしたら意図的にこうした回り道を用意したのかもしれませんが、それが映画の面白さに繋がっているとは思えませんでした。
やや不足しているキャラクター描写
その一方で、描写が不足しているのではないかと思われる要素も見られました。
例えば娘が成長した後、父親のボブはお酒と薬に溺れています。その後も「フレンチ75」の合言葉が一向に思い出せない描写が続きます。恐らく革命家として活躍していた時期とのギャップを露わそうとしたのでしょう。
しかしそもそも冒頭からして彼が主導となって革命活動を推し進めているようには見えませんでした。むしろ活躍していたのはパーフィディアでしょう。なので過去のボブと現在の彼にそこまで大きな差が感じられません。電話の向こうでかつての仲間がボブのことを「昔の英雄だぞ」と表現していたのには違和感があります。
さらにロックジョーは「クリスマスの冒険者」に加入するために、黒人の娘を始末しようとしまうす。しかしそれまでのシーンで彼が人種差別的思想に染まっている描写が見られなかったため、そこまでして秘密結社に入会しようとする動機がよくわかりません。
もしかして、自分から逃げ出したパーフィディアに対する憎しみがその引き金となったのでしょうか。もしそうならば、それを観客に暗示する手がかりを用意してくれても良かったと思いますが。
パーフィディアがダメ女すぎる
またウィラの母親であるパーフィディアにまるで共感できなかったのも大きな痛手でした。
正直いってパーフィディアが追い詰められていったのは自業自得としか思えません。「フレンド75」が壊滅したのはほぼ彼女が原因といって良いでしょう。何しろ全ての発端は彼女が銀行で黒人警官を射殺した事なのですから。好意的に解釈すれば、ボブの愛情を娘に奪われてフラストレーションを溜めていたのが原因と思われますが、そんなものは何の言い訳にもなりません。
最終的に彼女は刑務所行気を逃れるために仲間の情報をバラシ、ボブたちを置いて国外逃亡をしてしまいます。そしてそれ以降は一切登場しません。彼女は組織と家族の両方を裏切った形となります。
さらに物語の後半では、ウィラの父親がボブではなくロックジョーであったことが判明します。つまりパーフィディアは托卵をしていたわけです。彼女が娘の世話をするボブに苛立ちを感じていた理由がここでわかりますが、そのせいで彼女の印象がますます悪くなってしまいます。もし彼女がロックジョーに無理やり関係を迫られていたとしたらまだ同情できますが、劇中での描かれ方からしてどうもそのようには見えませんでした。
要するに、パーフィディアは何でも自分の思い通りにならないと気が済まない性格なんじゃないでしょうか。ロックジョーとの関係において、当初は彼女が主導権を握っていました。しかし警察に逮捕されてからは逆にロックジョーが主導権を握ります。これが嫌で彼女は国外逃亡をしたのでしょう。
映画のラストではウィラが母親からの手紙を読みます。そこには母親としての役割を全うできなかったことへの後悔が綴られていましたが、正直いってこれを感動的な展開としては受け取れませんでした。なぜなら映画の冒頭で「革命活動よりも娘の育児を優先してほしい」と正論をぶつけるボブに対して、彼女は「それは男のエゴ」だと決めつけているからです。なのでそもそも彼女に母親となるつもりがあったのだろうかと疑問に感じてしまいました。
革命活動は本当に良いことなのか?
この映画のテーマ性は「権力に抗うこと」でしょう。冒頭で描かれる「フレンチ75」の活動だけでなく、中盤では警官たちと対峙しているデモ活動者たちも描かれていました。そしてウィラがデモのニュースを聞き、それへ参加するために家を出るシーンで映画は終わります。ウィラが母親の意思を受け継いだということでしょう。
しかしそもそも「フレンチ75」の活動は正当なものでしょうか?序盤の移民を逃亡させる作戦はまだしも、それ以外は単なる破壊活動に終わっています。まるで『ファイト・クラブ』の騒乱計画のようです。パーフィディアが警官を射殺するシーンの直前に、メンバーの一人である黒人女性が「アンタたちの金が私たちの宝石になる」といった趣旨の宣言をしています。結局この人たちも私利私欲のため、日ごろの鬱憤を晴らすために暴力行為に及んでいるような印象を受けました。
再結成した「フレンチ75」が「クリスマスの冒険者」を襲撃して壊滅させるという展開だったら、面白かったんじゃないかとも思いましたが。
良かった点もあります
何だか文句ばかり書いてしまいましたが、全体としては娯楽に徹していて楽しい映画だったと思います。
笑いに溢れた逃亡シーン
中でもロックジョーに自宅を襲撃されたボブが逃亡し、センセイの自宅で騒動を起こす一連のシーンがこの映画の白眉でした。電話の充電するためのコンセントを探すボブ、(恐らく)スペイン語で子供たちに指示を出すセンセイ、謎のスケボー集団、合言葉を巡って電話口で交わされる丁々発止のせめぎ合い、そしてひたすら同じ音が繰り返される音楽、これらの要素が絡み合って完全なるカオスが生み出されています。
そしてセンセイからあんなに大事に託されていた猟銃ですが、いざボブがロックジョーを射殺しようとするときは華麗に外していくという拍子抜けっぷりも笑えます。
他にも娘を過度に心配して彼女の男友達を脅迫するボブといい、全体を振り返ってもユーモラスなシーンは総じて出来が良かったと思います。
車3台の追いかけっこ
クライマックスに用意されていたカーチェイスシーンも、IMAXで観るにふさわしい美しさを持っていました。うねりのある道路を3台の車が走るPOVショットは純粋に見ていて心地良く、ただひたすら走っているだけで大したアクションが無いのにも関わらず魅力的な場面となっています。もう少し長くても良かった気がしますが。
ロックジョーという魅力的な悪役
キャラクターの中ではロックジョーが一番良かったと思います。ボブたちにとってはヤバすぎるサイコパス軍人ですが、実は裏でパーフィディアにぞっこん入れ込んでいたり、「クリスマスの冒険者」の幹部にへこへこ下手に出ていたりと、小物感がバランス良く醸し出されています。特によだれで髪型を整える場面なんかは、このキャラクターの絶妙に嫌な感じを象徴的に表していました。
まとめ
世評は絶賛に溢れていますが、個人的にはやや問題も多い作品に感じられました。あと流石に2時間42分は長いかなあ。
それとこの映画、取りこぼされた要素がいくつか残されています。「フレンチ75」のメンバーやセンセイは捕まったままですし、「クリスマスの冒険者」というヤバイ組織も存続したままです。ウィラの母親であるパーフィディアの行方の依然として不明のまま。こう考えると、続編の作りやすい作品かもしれませんね。
関連作品紹介:『ザ・マスター』(2012)

ポール・トーマス・アンダーソン監督の作品では『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』が一番好きなのですが、流石にこれは有名すぎるのでその次の作品を紹介します。
主演は『ジョーカー』のホアキン・フェニックス、『マネーボール』のフィリップ・シーモア・ホフマン、『メッセージ』のエイミー・アダムスなど。
第2次大戦の帰還兵であるフレディ(ホアキン・フェニックス)は社会に馴染もうとしますが、自身の暴力的・性的衝動を抑えきれずに数々のトラブルを起こしてしまいます。居場所がなくなって放浪していたある日、寝る場所を確保するためにとある豪華客船に忍び込みます。そこには新興宗教の教祖であるランカスター・ドッド(フィリップ・シーモア・ホフマン)も乗船していました。この数奇な出会いによって、2人の人生は思いもよらない方向に変貌していきます……。
そもそもタイトルの『ザ・マスター』とは誰の事を指しているのでしょうか?普通に考えればカルト団体の教祖であるランカスター・ドッドです。それではドッドには自分にとっての”マスター”が存在するのでしょうか?
さらにフレディはドッドの率いる宗教団体に関わり始めます。しかしフレディには本当に”マスター”が必要なのでしょうか?何しろ彼はずっと一匹狼で過ごしてきたのです。軍隊生活でもダラけきっていた彼が、誰かに従属するということが可能でしょうか?
このように今作は豊潤なテーマ性を盛り込んだ一級のヒューマンドラマとなっています。キャストの演技にショットの構成、そしてジョニー・グリーンウッドによる音楽、何から何まで精巧に形作くられています。
最近のポール・トーマス・アンダーソン作品は初期に見られたユーモラスな作風が回帰していますが、また今作のようなシリアス作品を観てみたいですね。

ザ・マスター [Blu-ray]
