目次
概要
コロナ禍を舞台とした群像西部劇。
監督は『ボーはおそれている』のアリ・アスター。
主演は『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』のホアキン・フェニックス、『グラディエーターⅡ 英雄を呼ぶ声』のペドロ・パスカル、『憐みの3章』のエマ・ストーン、『ザ・バイクライダーズ』のオースティン・バトラーなど。
前半で示される社会的トピックたち
映画の前半では現代社会を風刺する社会的テーマが散りばめられており、良い意味でアリ・アスターらしくない作風に感じられました。
コロナ禍における人々の分断
例えば映画の冒頭で、マスクを着けずにスーパーで買い物をしようとした老人が、店から強制的に追い出されるシーンがあります。コロナウイルスという未知の恐怖によってそうした公衆衛生に敏感になる人々の気持ちは良く分かりますが、それにしても店から無理やり退出させるのは、警察でもないのにちょっとやり過ぎではないかとも感じられます。(まあポストコロナである現代だからこそ、こんな呑気なことが言えるのかもしれませんが。)
保安官のジョー(ホアキン・フェニックス)はそんな現状に憤慨し、市長選に立候補することを決断します。それを公表した配信の中で「エディントンにコロナは存在しない」とまで断言します。
しかしそんなのは一体誰にわかるのでしょうか。ジョーは医学者でもないのに。彼はマスクを着けない理由として「喘息を患っているので、マスクを着けたら息苦しい」と釈明していますが、喘息を患っているのなら尚の事コロナに感染しないように気を付けなければならないのではないでしょうか。
過剰に排他的になる人々もどうかと思いますが、それに対するジョーにも詰めの甘さが感じられます。
一方的な誹謗中傷と化す選挙戦
ジョーは市長選に立候補しますが、その動機は誰がどう見てもテッド(ペドロ・パスカル)に対する個人的な恨みとしか思えません。選挙カーでのスピーチでは終始データセンター建設への批判を述べており、レストランでの演説では何の証拠もないのに「妻のルイーズ(エマ・ストーン)はテッドにレイプされた。さらに妊娠中絶までさせられた。」と断言してしまいます。そしてそのデマをSNSを通じて流布しようと企てます。
しかしジョーが市長になった際、具体的にどんな施策を実施するのか、それがイマイチ見えてきません。その点については大して考えを持っていなかったのではとも思えてきます。ひたすら対抗馬への敵対心を煽り、消去法によって自身に投票するよう呼び掛けているのです。いますよねえ、こういう人。政治家でも一般国民でも。
胡散臭すぎる謎のカルト教団
さらに妻のルーシーはヴァーノン(オースティン・バトラー)率いるいかにもヤバそうなカルト教団にのめりこんでしまい、最終的には家を出ていってしまいます。
しかしルーシーがこうしたカルト教団に夢中になったのは、彼女の性格からして必然だったようにも思えてしまいます。ジョーが市長選に出馬することを知った彼女はヒステリックになって部屋に籠ってしまいます。それに対してジョーはただオロオロするばかり。妻の商品を買ってもらうよう、わざわざ同僚に頼んでいるくらいです。しかも彼女は働かずにずっと家に籠っており、陰謀論を流布する母親と同居しているという環境におかれています。こんな状態ではどんどん自分の世界に引きこもり、エコーチェンバーに陥るのが自然の成り行きでしょう。
ネット上で陰謀論にハマってしまう人も、こういう閉鎖的な環境に置かれている場合が多いのかもしれません。他人と関わる機会が少ないので、洗脳から抜け出すことが難しくなってしまうのでしょう。ルーシーというキャラクターは、怪しい宗教や胡散臭い陰謀論に没入してしまう人間のプロトタイプのように描かれていました。
考えが浅はかすぎるデモ集団
特に際立っていたのが、若者たちによるデモ運動の浅はかさです。テッドの息子であるエリックの友人であるブライアンは、政治的主張の強いサラとお近づきになるために、BLM運動に参加します。動機が不純すぎるのですが、彼が食卓で両親に語る内容もサラが話していたことの受け売りに終始しています。自身でしっかりと考えた上で、政治的主張をしているようにはとても思えません。
またサラは元カレであるマイケルに「あなたは黒人なんだから、差別の苦しみがわかるでしょ!なぜ私たちの側につかないの?」と詰め寄ります。しかし彼は黒人差別が苛烈だった時代を生きていないので、差別の苦しみを直接受けていたわけではないのです。何を言っているのでしょうか。
映画の途中では、ジョージ・フロイド殺害事件をきっかけとしてデモ運動がさらに過熱します。しかし当たり前ですが、ジョージ・フロイドを殺害したのはエディントンの警官ではありません。にも関わらず、エディントンの保安官事務所の前で抗議運動を行い、挙句の果てには店のガラスまで破壊するのは、完全にピントを外しているでしょう。
要するに、この人たちはただ自身の主張を通そうとしているだけであって、相手の話も聞いて問題を解決しようとする合理的態度など微塵も持ち合わせていないのです。この民衆の浅はかさには辟易とさせられました。まあ若い人間は若気の至りとしてこういうのに夢中になってしまう時期はあるかもしれませんが。
テッドの描写がイマイチ足りていないかも?
映画の前半を観て感じたこととして、現市長であるテッドのキャラクターとしての魅力が少々足りていないように思いました。
彼がジョーと1対1で言い争っているシーンはいくつか用意されていました。しかし彼の内面を描くシーンとしては、経済顧問であるウォーレンからメダルを受け取り、友人と会おうとする息子のエリックを咎める場面ぐらいです。またそこでテッドの妻が家族を置いて消息を絶ったことに触れられますが、この要素もその後の展開でイマイチ生かされていません。
ジョーとの確執として、過去にルーシーを妊娠させたのではという疑惑が持ち上がっていました。しかし彼はそれを完全否定しますし、ルーシーも動画を通じて疑惑を否定しています。データセンター建設にまつわるスキャンダルも含めて真相は藪の中です。
ジョーとルーシーに比べて、テッドの印象はいまいちパッとしません。描写が足りていないというのもありますが、良くも悪くも普通の人止まりなのです。選挙戦ではテッドが優勢になっても、それは彼の実力によってではなくジョーの自滅が原因です。せっかくペドロ・パスカルを起用しているのですから、もう少し彼のキャラクターを掘り下げてほしかったです。
このように映画の前半では様々な社会的テーマが提示され、それが後半のストーリーで発展していくのだろう・・・そう思っていました。
映画の雰囲気がガラッと変わる、急ハンドル展開
しかし中盤でプッツンしてしまったジョーがテッド父子を射殺してから、映画は今まで提示してきたトピックをもれなく吹き飛ばし、不条理展開へと突入してゆきます。ここからがアリ・アスター監督の本領発揮、とても言うように。
記者会見の場でジョーが「市長を殺したANTIFAには容赦しない。エディントンの住人がお前らを血祭りにあげるだろう」と余計なことを言ったせいで、ヤバイテロリスト集団に目を着けられることになってしまいます。(まあこの発言はブライアンがテロリストを射殺するという形で実現することにはなるのですが。)
このテロリスト集団は人智を超えた悪として描かれており、完全に匿名の存在として描かれています。クライマックスで物語はホラーへと突入していき、ジョーとテロリストの銃撃戦という荒唐無稽な展開へと突入していきます。
前半で提示された社会的トピックが完全に消え失せたわけではありません。例えば失踪したマイケルを捜索する最中に、ジョーは『白人至上主義」と書かれた不気味なオブジェを目撃します。さらにテロリストの銃撃から逃れている途中でジョーは博物館の屋根を突き破って落下します。その博物館ではネイティブ・アメリカンにまつわる展示品が陳列されています。
こうした意味ありげな要素が残されてはいるものの、テロリストが登場してからは完全に不条理劇へと突入し、前半で提示された陰謀論、SNS、コロナ禍、カルト教団といったトピックは放り投げられてしまっております。
もしかして、「社会的テーマを盛り込んだ真面目な映画」から「不条理ホラー」への大転換をやることが、この映画の目的だったのではとも思えてきます。テッドというキャラクターにペドロ・パスカルというスターを起用したのも、中盤であっけなく殺害されるという衝撃の展開のためだけに用意されたのかもしれません。『サイコ』のマリオンや『シャイニング』のハロランのように。
不可解なラストシーンの解釈
ジョーが脳点にナイフを刺されてからは、映画はさらに奇妙な展開へと進んでいきます。ここではラストシーンの個人的な解釈を書いてみます。
テッドが死亡したことでジョーは市長に当選します。しかし事件の後遺症によって全身麻痺の状態となっており、ルーシーの母であるドーンの傀儡人形と化しています。あんなに批判していたデータセンターも建設され、何のために市長になったのやら、本末転倒な結果となっています。自身が市長になるためにテッドを殺害したにも関わらず、それが原因でテロリストに襲撃され、名前だけの市長になる羽目になるとは何と皮肉な展開でしょうか。「市長になる」というジョーの夢は、最悪の形で実現することとなったのです。
またドーンはジョーの世話をしながらまたしても陰謀論をまき散らし、ジョーもルーシーと同じく陰謀論に染め上げられてしまうのではと思われます。こんな陰謀論を信じている人間が権力の座に収まっているとは、散々な結果です。
さらにジョーは見たくもないのに、妻のルーシーがヴァーノンの子供を身ごもった動画をドーンから見せつけられます。身体が動かない状態で、恋人がヤバいコミュニティに取り込まれる様を見せつけられる結末は『ミッドサマー』と同じです。
最後のシーンでは生き残ったマイケルが射撃の練習をしています。これをどう捉えるかは人それぞれでしょうが、私は自分を陥れようとしたジョーへの復讐を企んでいるのではないかと解釈しました。テッド殺害から始まった殺人の連鎖はまだ終わっておらず、選挙戦を通じてエディントンの街は何も改善しなかった(むしろ事態は悪化している)という結末ではないでしょうか。
まとめ
アリ・アスター監督の初期作品である『へレディタリー』や『ミッドサマー』は純粋なホラー映画といえる作風でしたが、『ボーはおそれている』から不条理コメディの要素が混入し、今作『エディントンへようこそ』でもその路線が引き継がれていました。アスター監督はこれからどこへ向かっていくのでしょうか。全く予想ができません。この滑稽な不気味さには何となくフランツ・カフカやジム・トンプスンに近いものを感じます。
関連作品紹介:『悪の法則』(2013)

雰囲気的に近いものを感じたのでご紹介。現代のアメリカ西部を舞台にしている点、様々な人物が入り乱れる群像劇である点、そして後半でヤバいテロリスト集団に人々が殺される点で、両作品は共通しています。
監督は『グラディエーターⅡ 英雄を呼ぶ声』のリドリー・スコット。脚本は『ノーカントリー』の原作者として知られるコーマック・マッカーシー。
主演は『ブラックバッグ』のマイケル・ファスベンダー、『フェラーリ』のペネロペ・クルス、『ANNIE/アニー』のキャメロン・ディアス、『デューン 砂の惑星』のハビエル・バルデム、『F1/エフワン』のブラッド・ピット。
結婚指輪の購入資金を稼ぐために怪しいビジネスに手を染めてしまったカウンセラー(マイケル・ファスベンダー)。しかし偶然のイタズラによって、彼は周囲の仲間たちを巻き込んで窮地に追い込まれていきます・・・。
小説家のコーマック・マッカーシーが脚本を書いているだけあって、全篇に渡って含蓄に富んだ台詞に溢れています。私はこの作品を”自然界の弱肉強食を人間社会に当てはめた寓話”と解釈していますが、まあそんな小難しいことを考えなくても、一種の破滅劇として楽しむことができます。
キャラクター達も魅力的です。主人公のカウンセラーを裏社会に巻き込むライナー(ハビエル・バルデム)は、一見すると麻薬ビジネスを知り尽くしたベテランのようにも見えます。しかし土壇場になると思い切った決断ができない、優柔不断な弱さも併せ持っています。
ライナーの友人であるウェストリー(ブラッド・ピット)はライナーよりも決断力を持っています。彼は心の底ではライナーを見下しており、カウンセラーがビジネスに関わろうとする事を暗に止めようともします。なかなかカッコ良く見えるキャラクターですが、そんな彼にも一つだけ弱みを持っていて・・・・
そしてライナーの愛人であるマルキナ(キャメロン・ディアス)。この人の振る舞いには一種の達観が感じられ、ライナーも彼女の行動に戸惑いを隠せません。ビジュアルからはチーターを連想させますが、その名の通りハンターとしての本性を隠し持っています。
このように主人公の周辺を取り巻くキャラクターたちは生き生きと描かれており、忘れがたい印象を放っています。それに比べてカウンセラーと妻のローラ(ペネロペ・クルス)の影が薄いのが玉に瑕ですが。
ダニエル・ペンバートンによる音楽も優れています。特にクライマックスでのウェストリーの”あの”シーンにおける音楽(”Wire To The Head”)が素晴らしく、この場面だけでも一見の価値はあると思います。ちなみにペンバートンは『エディントンへようこそ』でも劇伴を担当しています。
世評は振るわないようですが、一部の人々からカルト的な人気を集めている作品です。個人的にはリドリー・スコットの作品の中でもかなり好きです。
ちなみに今作、オリジナル版と特別編集版の2種類のバージョンが存在しています。ぶっちゃけどちらを観ても良いとは思いますが、オリジナル版は短くてスッキリとまとまっているので、こちらをオススメしておきます。

悪の法則 オリジナル版 (字幕版)

