
映画の音楽
目次
概要
1995年にフランスで出版された、映画音楽の多様な要素を包括的に網羅した概説書。著者のミシェル・シオンは本書の他に『映画にとって音とは何か』(1985)、『ジャック・タチの映画研究ノート』(1987)といった映画にまつわる書籍を出版しています。
本書の主な構成は以下の通り。
前段(第1章)では映画の音楽について考えるにあたりどのような点に留意しておくべきか(映画音楽はそれ単体で評価できるのか?、映画監督と作曲家の関係は作品にとってどれだけ重要か?など)について記述しています。
第1部(第2~4章)「音と映像の共存の一世紀」では、映画における音楽の歴史をサイレント時代から20世紀終盤まで取り扱っています。
第2部(第5~7章)「映画における音楽の三つの側面」では、映画音楽の側面をを大まかに”要素と手段”、”世界”、”主題、メタファー、モデル”の三つに分けて詳説しています。
第3部(第8章)「複数の独自性」では、個別の映画監督や映画音楽作曲家ごとにそれぞれの作風・スタイルについて解説しています。
ここからは本書を読んで私が興味深いと思ったトピックを第1~3部ごとに紹介していきます。
第1部:サイレント映画における音楽
まず第1部「音と映像の共存の一世紀」では映画音楽の歴史が詳述されます。「初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』における宗教音楽と世俗音楽の対立というテーマ」、「トーキー以後における映画音楽の作風変遷」など面白いトピックは多いですが、ここではサイレント期の映画における音楽について取り上げてみます。
「サイレント映画なのに音楽?」と疑問を持つ方もいるかもしれません。しかし音の無い無声映画の上映でも、劇場では楽団やピアニストが同時に生演奏で音楽をつけていたのです。
サイレント映画の上映で音楽を演奏した理由としては「映写機の騒音を消し去るため」という点が真っ先に挙げられます。しかし著者のミシェル・シオンはこの理由だけでは不足であると述べています。
彼は別の理由として「編集によって分断されている映画という芸術を、持続的な音楽によって一つにまとめるため」だと主張します。映画というものは基本的には編集によってぶつ切りにされたカットの集合によって成り立っています。これによって散漫になりかねない映画の印象を、持続的な音楽によって一体感を加味していたという事情です。
そうしたサイレント期における映画では、伴奏に使う音楽が各々の劇場における裁量に委ねられていました。そこで”この映画のこの場面ではこのような音楽を演奏して欲しい”という指示を記載したものが、楽団員や劇場スタッフに劇場から配布されていました。これが「キュー・シート」です。
この事実が何を物語っているのかというと、映画製作者側は演奏する音楽を指定していなかったということです。実はこれを試みた監督・作曲家もいたようなのですが、楽団の演奏技術の稚拙さが災いしたり、そもそも製作者の指定した楽譜が地方の劇場にまで行き渡らなかったりという事情によって、結果は芳しいものとはなりませんでした。しかしトーキーの導入によってこの問題は解決されることとなります。トーキー映画というとその名称から台詞の挿入に注目が行きがちですが、音楽面における影響も無視できないと思います。
となるとここで問題となるのは、「現代でサイレント映画を上映・鑑賞する際は、どの音楽を付随させるべきなのか?」という点です。著者のシオンは既存のサイレント映画に全く新たな音楽を作曲して付け足したり、モノクロ映画をカラー化したりすることにどうやら賛成しているようです。個人的には問題も多いように感じます。(ジョルジオ・モロダ―が『メトロポリス』(1927)に電子ロックの音楽をつけて、酷評されたこともありますし。)
第2部:ドビュッシーの音楽はホラー映画に活用されていた!?
第2部「映画における音楽の三つの側面」では、映画作品の中で音楽が果たす役割が、多面的な視点に基づいて論じられます。ここでも「映画音楽に必然性は存在せず、ある映画のために作曲された音楽を別の映画に適用させることも十分可能である」、「サイレント期に映画は音楽作品と類比されていたが、トーキー以降はそれが誤りだと見做されるようになった」といった面白いトピックが豊富に含まれています。
ですがここでは第6章「世界における音楽」の後半で論じられている、作曲家別クラシック音楽の使われ方の類型・傾向についての考察を取り上げます。この部分で扱われている作曲家の名前を列挙してみると、ヴィヴァルディ、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、チャイコフスキー、ワーグナー、ドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキーの計10人です。
ヨハン・セバスティアン・バッハ
例えばJ・S・バッハの楽曲が映画に引用される場合、2つのパターンがあるといいます。一つ目はシーンにおける劇的で力強い感情を表現する場合、もう一つは肉体的・暴力的なシーンとの対比として均質的で洗練された音楽を配置する場合です。私なりに具体例を挙げるとするならば、前者は『カジノ』(1995)冒頭でのマタイ受難曲、後者は『羊たちの沈黙』(1991)でレクターが看守を殺害した後に流れるゴルトベルク変奏曲、が該当すると考えました。
クロード・ドビュッシー&モーリス・ラヴェル
とりわけ意外だったのがドビュッシーやラヴェルといった印象派の音楽がホラー映画にしばしば用いられる、という指摘です。その例として『エイリアン』(1979)でジェリー・ゴールドスミスが作曲した音楽が挙げられています。クロード・ドビュッシーの楽曲における全音音階を活用したフワフワした音色が、宇宙での孤独感を表現しているといいます。さらに映画冒頭で乗組員たちが冷凍睡眠から目覚めるシーンでの音楽には、モーリス・ラヴェルの影響が聴き取れると指摘しています。

エイリアン (字幕版)
リヒャルト・ワーグナー
そして映画音楽において決して無視できないのは、リヒャルト・ワーグナーの”ライトモティーフ”の活用です。”ライトモティーフ”とは、物語上のキャラクターや場面に結びつけられたメロディのことであり、曲が進むにつれて変形させられることが多いです。最もわかりやすい例としては、『スター・ウォーズ』(1977)におけるダース・ベイダーのテーマや、『ジョーズ』(1975)におけるサメのテーマ、が挙げられます。
この”ライトモティーフ”はワーグナー以後のクラシック音楽だけでなく、数えきれないほどの映画音楽に活用されてきました。同じくミシェル・シオンによる書籍『映画にとって音とは何か』では『サイコ』(1960)における”ライトモティーフ”の活用が解説されています。こちらの書籍は映画音楽に特化したものではないですが、映画における聴覚的要素についての基礎的事項が概説されています。

映画にとって音とはなにか
第3部:映画監督ごとにおける音楽的作風
第3部「複数の独自性」では、いよいよ個別の映画監督・作曲家の作風にスポットが当てられます。取り上げられている人を全て列挙するのは無理なので、ここでは何人かをピックアップしてご紹介します。
しかしその前に、映画監督と作曲家の関係について著者のシオンは釘を刺しています。
そういうわけで、われわれが思うに、監督と作曲家との完璧な関係という事実は、映画音楽の歴史を語る者には好都合だろう。(中略)だが、こういった事実は、唯一の基準に押し込まれて、問題をおそろしくつまらないものにし、映画を二人一組セットの歴史、合意と誤解、服従と争いの歴史に狭めてしまう。
つまり映画音楽の作曲家は確固たる作風を確立しているとは限らず、対象となる映画作品ごとに手法や様式を柔軟に使い分けているということです。なので映画監督と作曲家という関係だけに映画音楽のコンセプトを見出すのは安易だと警鐘を鳴らしています。それのせいか、第3部で取り上げられる人物は圧倒的に監督が多く、作曲家及び録音技師はモーリス・ジョベール、ジョルジュ・ドルリュー、バーナード・ハーマン、ウォルター・マーチの4人だけとなっています。
セルゲイ・エイゼンシュテイン
それでは監督ごとの解説をいくつか見ていきましょう。まずはセルゲイ・エイゼンシュテイン。彼が手掛けた『アレクサンドル・ネフスキー』(1938)における音楽様式は『エイゼンシュテイン全集7』に収録された論文の中で彼自ら解説していることでも有名であり、映画音楽を論じる際に未だに取り上げられることがままあります。
しかし著者のミシェル・シオンはこう断言します。
しかしこの映画における音楽の映像との関連というのは、人びとが作品をヴィデオ・カセットで見ることができる昨今、そのことを確かめることができるのだが、信じられないほどに平行線をたどっている。(P.291)
例えば本作ではロシア軍とチュートン軍との対立が描かれていますが、両者を表現する音楽の主題はひどく単純でステレオタイプ的であるといいます。そしてこの映画が高く評価されているのはエイゼンシュテインによるモンタージュとプロコフィエフによる音楽のクオリティが高いからであって、両者を融合させた結果としては、ひどく凡庸で前時代的であると述べています。
このように本書では世間一般の評価と著者のそれにしばしばズレが見られます。例えばシオンは『ファンタジア』(1940)や『シャイニング』(1980)での音楽の使い方を批判する一方で、『ワン・フロム・ザ・ハート』(1982)という興行的に大惨敗を喫した作品を擁護しています。もちろん映画の評価は人それぞれですが、あまり著者の評価を鵜呑みにし過ぎないようにはするべきかもしれません。

アレクサンドル・ネフスキー
イングマール・ベルイマン
次はイングマール・ベルイマン。彼の映画作品では年代が経るに連れて段々と音楽が使用されなくなっていきます。その理由としてシオンは「映画の構成そのものに音楽的要素を取り入れたから」だと述べています。
例えば『鏡の中にある如く』(1961)では主人公の女性、弟、夫、そして父の4人が登場しますが、人物を4人に限定することによって弦楽四重奏曲の形式を模倣しているといいます。映画の冒頭で水浴びから上がった4人はそれぞれ姉と弟、夫と父の2人ずつに分かれて行動します。姉と弟は陽気にはしゃいでいますが、夫と父は鈍調に小舟を漕いでモタモタしています。この2グループの様子をモンタージュで交互に見せることによって、リズムとトーンの対比を表現しているのです。こうした音楽的様式は『沈黙』(1963)でさらに深化していきます。
本書ではベルイマンの他にもジャン・エプシュタインやF・W・ムルナウといったサイレント期の巨匠たちにも焦点を当て、映像だけでいかに音楽的形式を表現しているのかを解説しています。本書では取り上げられていませんが、トーキー以後の映画群の中にも、音楽をほとんど使っていない傑作は多く見られます。(『鳥』(1963)、『隠された記憶』(2005)、『ノーカントリー』(2007)など)。これらの作品においてはなぜ音楽を使わなくても観客の感情を誘導することに成功しているのか、検証が必要かもしれません。

鏡の中にある如く/ハリエット・アンデルセン,マックス・フォン・シドー,グンナール・ビョルンストランド,ラーシュ・パスゴート,イングマー
キャロル・リード
最後はキャロル・リード。というよりも彼が監督した『第三の男』(1949)ですね。
この物語の舞台は「音楽の都」ウィーンです。しかしこの映画でクラシック音楽はほとんど流されず、代わりにアントン・カラスによるツィター音楽が能天気なメロディを奏でます。なぜなら映画で描かれているウィーンは第2次大戦後の荒廃した街であり、シュトラウスのような過去の栄光は失われてしまっているからです。
シオンはこの映画で流れているツィター音楽を「冷ややかでアイロニカル」だと見做します。そしてこうした”非感情移入的音楽”のブームがこの作品を契機に再燃したと主張し、『夜と霧』(1956)、『ヒロシマ・モナムール』(1959)といった後年の作品にその傾向が表れているといいます。

第三の男(字幕版)
この他にもヴィスコンティ、キューブリック、ゴダール、コッポラ、タルコフスキー、トリュフォー、フェリーニ、リンチなど多くの映画監督が取り上げられています。まずは自分が好きな監督、作品を観たことのある監督の項目から読んでみるのが良いと思います。(逆に名前すら聞いたことが無い人は読み飛ばしていいかも)
トピックが散乱している?
ざっと第1部~第3部までが概観してきましたが、全体を通していえるのが「多様な論点を網羅していて、統一性がない」という点です。映画における音楽についての全てのテーマを論じるために、それぞれの論点は若干掘り下げが浅くなっているように感じました。
その証拠に、本書で論じられている音楽の種類もオリジナル音楽だけではなく、クラシック音楽にミュージカル映画、ジャズにポップ・ミュージック、さらにオペラ映画についても触れられています。個々のテーマ自体は関心をそそられるものばかりだったのんで、もう少しテーマを絞ってそれぞれの内容に深くフォーカスした方が良かったんじゃないでしょうか。
まとめ
テーマが散乱しているという問題点はあるものの、本書は数少ない映画音楽についての研究書の中では最も網羅的であり、この領域における基礎文献となっています。
当たり前ですが本書の刊行は1995年ですので、21世紀における映画音楽については全く触れられておりません。映画音楽における最新文献が望まれるところです。今書くとしたら、クリストファー・ノーランやクエンティン・タランティーノなどは良い考察対象になりそうですね。
しかし本書は2025年現在は絶版であり、Amazonでは1万3000円というプレミア価格が付いています。(まあそもそも本体価格が9000円ですので現役の頃でも十分高額ではあったのですが……)図書館で探して読みましょう。

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