『メガロポリス』元巨匠監督の新たな衰退(ネタバレあり)

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画像出典:IMDb-Megalopolis

概要

 フランシス・フォード・コッポラが13年ぶりに監督した作品。コッポラ監督はこの企画を40年以上も温めていたそうです。

 出演は『フェラーリ』のアダム・ドライヴァー、『キャプテン・アメリカ:ブレイブ・ニュー・ワールド』のジャンカルロ・エスポジート、『ワイルド・スピード/ファイヤーブースト』のナタリー・エマニュエル、『オペレーション・フォーチュン』のオーブリー・プラザ、『私というパズル』のシャイア・ラブーフ、『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』のジョン・ヴォイト、『クィア/QUEER』のジェイソン・シュワルツマン、『アマチュア』のローレンス・フィッシュバーン、『マイヤーウィッツ家の人々 (改訂版)』のダスティン・ホフマン。

前評判は伊達じゃなかった

 今作『メガロポリス』は、海外では去年に公開済みの作品です。その結果が興行的失敗と批評的酷評に終わったのは周知の通りです。つまり観客と批評家、両方からそっぽを向かれたわけですね。

 とはいえ、今作を観る前の私はやや期待をしていました。「そうは言ったってあの『ゴッドファーザー』を撮った監督だし、何十年も温めていた企画なのだし、キャストは豪華だし・・・、言うほど悪くはないんじゃないの?」そう高を括っていたのです。

 しかし観終わった後の率直な感想としては「前評判は嘘をついてなかったな・・・・」というものでした。何というか、とにかく見所の無い作品でしたね。

古代ローマ的世界観とSFというジャンルが噛み合っていない

 まず問題なのは、古代ローマの世界観とSF的意匠がまるで噛み合っていないということです。

 そもそもこの映画、SF的要素は希薄です。街の情景や建物の内部を映し出すショットが度々映し出されますが、現代の街並みと言われても違和感を感じないショットに溢れています。

 例えばクラッススとワウの結婚式のシーンで、クロディオがポップスターのスキャンダル映像を流すよう、ディレクターを脅迫する場面。ここではステージの裏側が映し出されているのですが、これが現代のテレビ局と大して変わらないデザインなのです。

 さらにカエサルが元恋人のワウにコートを渡す屋外のシーン。こうした外のシーンでもディストピア的世界観は全く感じられず、現代社会によくある普通の街並みです。

 こうした現代的なデザインの中に古代ローマの要素が混入しているので、観ていて強烈な違和感を覚えました。なぜこの世界線でこうした前近代的世界観が復活しているのでしょうか?そうした背景説明は全くありません。

 さらにこうした影響により、古代ローマ人の服装をしている人々(例えば結婚式でのクロディオなど)が完全に浮いてしまっており、コスプレ会場と化しています。何だか日本のダメな漫画実写化作品のようであり、これまた受け入れ難いヴィジュアルでした。

投げっぱなしの要素が多すぎる

 この映画はとにかく有効活用されない要素に溢れており、観終わった後は強い消化不良に襲われます。

 まず冒頭のシーンで、カエサルが時を止める能力を保持していることが描かれます。これほど強力で魅力的な能力は無いようにも思えますが、しかしこの能力は物語中でほとんど活躍していません。彼が時空を止めることで、何か問題を解決するような展開は全く用意されていないのです。

 こんな凄い能力を持っているのならば、時を止めている間にさっさとユートピアを建設してしまえば良いように思えます。それに中盤ではソ連の人工衛星がアメリカに墜落しますが、そこで時を止めれば大惨事は防げたんじゃないでしょうか

 さらに映画の中盤でカエサルはいくつかの災難に直面します。例えば未成年(実は成人)のポップスターと肉体関係を持っていた疑惑で逮捕されたり、クロディオの部下が雇った殺し屋によって顔を撃たれたりします。

 しかしこれらの出来事もやはり主人公の物語にほとんど影響を与えていません。あのポップスターは、成人であることを世間に公表された途端に映画から姿を消しますし、カエサルはいつの間にやら釈放されています。そのシーンでは一時的に時を止められなくなってしまうのですが、ジュリアと触れ合った途端、その能力を回復させます。(どういう理屈なのかはサッパリわかりませんが。)

 さらに銃で顔を撃たれた後、自身が開発したメガロンで顔面を再生させるために、顔に包帯をまとった状態でクラッスス邸に表れます。しかしいつの間にやら顔は回復しており、しばらくすると包帯は取れて元通りの姿で映画に表れます。

 つまりこれらのシーンをカットしても、その後の展開にほとんど支障が無いということになります。カエサルに訪れる事件が、主人公の道を閉ざす障害となっていないのです。

 さらにカエサルの死んだ妻にまつわる要素も放りっぱなしになっています。映画の後半でカエサルの元を訪れたキケロは彼に「娘と別れて欲しい」と呼びかけ、カエサルの死んだ妻にまつわる秘密を教えると告げます。カエサルはその場で返事をせず、キケロは「3日待つ」と言って、出て行きます。

 そもそも「ジュリアがカエサルと交際していることをキケロはずっと前から聞かされていたのに、何をいまさら・・・」と思ってしまうのですがそれはともかく、このシーンを見れば「カエサルの元妻の死亡には、何らかの陰謀があったのだろう」と鑑賞者の誰もが思うでしょう。しかしカエサルはいつの間にやらジュリアと結婚しており、彼とキケロはラストシーンで和解しています。結局カエサルの元妻にまつわる秘密は放置されたままです。

端折りすぎにもほどがある

 重要であるはずの場面が妙にスピーディーに処理されている場面が多く、構成にも難があったと思います。

 映画の中盤ではソ連の人口衛星が墜落し、アメリカは壊滅状態に陥ります。しかしそのシーンはほとんど描かれず、暗転で早々と済まされてしまいます。この出来事はカエサルがユートピア建設を実現に写すきっかけとなるものですので、物語においては非常に重要なエピソードのはずです。しかしその割には妙に描写があっさりしています。

 さらにカエサルがユートピア建設をいよいよ実行に移すのですが、これまたショットの羅列で早々と済まされてしまいます。この映画って、建築家がユートピアを建設する物語なんですよね。何でそこを重点的に描かないのかなあ・・・。

 こうした重要な場面が端折られているのに対して、クラッススとワオの結婚式というどうでも良いシーンには長々と尺を費やしています。まあストーリー進行に関連していなかったとしても、視覚的な魅力に溢れていれば良いのですが、それもありません。(まるで東京オリンピックの開会式みたいだったし。)エネルギーを注ぐべき場所を間違えているとしか思えないのですが。

説明不足も甚だしい

 さらにストーリー上におけるわからない要素がとにかく多すぎて、解釈に困ってしまいました。

 まずクロディオは映画の最初からカエサルを敵視しているのですが、彼がなぜカエサルを憎んでいるのかは不明です。クロディオは街を支配しようとしているのですが、カエサルは別に支配者ではありません。憎むべきは市長であるキケロの方ではないでしょうか。

 それとカエサルとキケロは2人とも民衆のデモで批判されているですが、この原因が何なのか、これまたサッパリわかりません。アメリカの大統領選挙のように支持者が分断しているのかと思ったのですが、どうやらカエサルとキケロの両方が攻撃されているようです。この2人が過去に何かをやらかしたのでしょうか?

 さらに人々の支持を集めて反乱を起こそうとしたクロディオは、終盤で民衆たちに反逆されて宙づりにされます。しかしなぜ彼が急に支持を失ったのかは、全く説明されていません。民衆の行動が余りにも単純すぎます。

 先ほども書いたように、カエサルの元妻の死因は依然として不明のままだし、ラストでカエサルとキケロが和解したのも、どういった経緯でそうなったのかは描かれていません。展開を簡略化しすぎたせいで、明確なストーリーラインを形成できていないようにも思えます。

まとめ

 ゴールデンラズベリー賞の最低監督賞受賞も納得の駄作でした。ちょっと何をしたかったのか、良く分かりません。。

 正直いって、ストーリーの細部に関しては何も考えていなかったんじゃないでしょうか。その代わりに文学的なセリフや幻想的な映像でお茶を濁していますが、明確な内容を伴っていないのでただ上滑りしていくだけに終わっています。総じて残念な仕上がりです。

 それとオールスター・キャストの無駄遣いも気になりましたね。ローレンス・フィッシュバーンはほぼナレーションの役割しか与えられていないし、ダスティン・ホフマンは大した出番も与えられないまま退場させられてしまいます。ジェイソン・シュワルツマンに至っては、出番らしい出番もありませんでした。

関連作品紹介:『コズモポリス』(2012)

画像出典:IMDb-Cosmopolis

 近未来のディストピアを描いた作品としては、この作品が印象的です。

 監督は『イースタン・プロミス』のデヴィッド・クローネンバーグ。出演は『ミッキー17』のロバート・パティンソン、『真実』のジュリエット・ビノシュ、『フェラーリ』のサラ・ガドン、『ザ・ホエール』のサマンサ・モートン、『オフィサー・アンド・スパイ』のマチュー・アマルリック、『ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリデイ』のポール・ジアマッティ。

 主人公のエリック(ロバート・パティンソン)は28歳の大物投資家。ある日彼は「床屋に行きたい」と急に言い始めます。事務所代わりのリムジンでノロノロと移動するエリック。彼のリムジンには様々な人が出入りします。妻、愛人、部下にかかりつけ医,etc. そして彼の元に一人の暗殺者が忍び寄ります・・・。

 実は今作、『メガロポリス』と色々な点で共通しています。高級リムジンで移動する登場人物、大物キャストの無駄遣い、やたらと文学的なセリフの数々・・・。しかし『メガロポリス』がカエサル、キケロとジュリア、クロディオとワオといった複数の人物を行ったり来たりしていたのに対し、『コズモポリス』では視点がエリックに固定化されています。なのでストーリーライン自体はシンプルです。

 小難しくて形而上的なセリフが飛び交いますが(そしてここが批判されているポイントなのですが)、そこまで難解に受け止める必要はないように思います。「何だか空虚で捉えどころのない話をしているなあ」という感想で十分でしょう。今作はそうした非現実性に囲まれた主人公が、現実に根差した肉体性を取り戻そうとする物語ですから(そういう意味では『ファイト・クラブ』に近いかも)。さらに今作では「非対称」というキーワードが重要なカギとなります。これから観られる方は注意してみてください。

 またエンドクレジットの曲”Long to Live”も良い味を出しています。クローネンバーグ作品はクレジットデザインにも拘りが見られますが、今作のEDはピート・モンドリアンの絵画のような背景にMetricのハスキーボイスが合わさって、空しくも感動的な映画の余韻を形作っています。

 世評はあまり良くありませんが、私はとても偏愛している作品です。


コズモポリス (字幕版)

 

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