※以下で並列して紹介する映画は執筆者が似ていると主観的に判断したのであり、映画の製作者が影響を公言しているとは限りません。ご了承ください。
※以下の内容は映画のネタバレを含んでいます。ご注意ください。
目次
映画のそっくりさん
映画を観ていてふと「どこかで見たことのある話だな…?」と感じることはありませんか。何しろ映画が誕生してから100年以上が経過しているのですから、似たようなストーリーが生まれてくるのは必然でしょう。例を挙げれば『タクシードライバー』と『ジョーカー』、『ウィッカーマン』と『ミッドサマ―』、『シックス・センス』と『アザーズ』などなど・・・。
そこで今回は私が作品を鑑賞して「似ている」と感じた映画たちを5組紹介していきます。
(ちなみに上記の画像は『マザー!』(2017)が『ローズマリーの赤ちゃん』(1968)をオマージュしたポスターです。この2つの映画の類似性は多くの識者に指摘されていますね。)
『キング・コング』(1933)と『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』(1997)
まあ恐竜を登場させているという点でも共通はしているのですが、物語の骨格自体も似通っています。
一行が船で島に到着
↓
島で恐竜に襲われる
↓
興行目的で大型生物(前者ではコング、後者ではT-REX)を捕獲して本土に連れ帰る
↓
怪物が解放されて大暴れ
という流れです。
『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク」においてT-REXがサンディエゴに上陸して大暴れする場面は映画オリジナルであり、マイケル・クライトンによる原作小説にはありません。ではなぜ映画版でこのような展開を入れたのか?それはやはり画面的に”映える”からでしょう。何しろ前作『ジュラシック・パーク』のラストでT-REXがヴェロキラプトルを蹴散らすシーンも映画オリジナルなのですから。
コングとT-REXが街中で暴れる動機は共通しています。それは自身の大切なモノを探しているからです。それはコングにとってはヒロインのアン、T-REXにとっては自分の子供に当たります。
対して両者の違いは怪物の最期にあります。コングは飛行機に攻撃されてエンパイア・ステート・ビルから転落死します。一方でT-REXは子供と再会し、親子共々生きて島に送り返されます。
ここにはスピルバーグ監督の恐竜好きが反映されていますね。例えば『ジュラシック・パーク』の原作では最終的にイスラ・ヌブラル島は空爆され、恐竜たちは全滅させられます。(エピローグで実は数匹が本土に上陸したかもしれないことが仄めかされますが)しかし映画版ではこのラストを採用しませんでした。これと同じように、『ロスト・ワールド』において『キング・コング』のような悲劇的な結末を採用することはスピルバーグにとって受け入れがたかったのではないでしょうか。
『ファニーゲーム』(1997)と『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』(2017)
これは映画を観た人なら誰しもピンときたと思います。『聖なる鹿殺し』のラストで父親のスティーブン(コリン・ファレル)が息子のボブ(サニー・スリッチ)を射殺する場面、クッションカバーを被せられたボブの死体から血が流れていくショットが、『ファニーゲーム』で息子ジョージが同じくクッションカバーを被せられているショットとそっくりなんですよね。これはどうみても『ファニーゲーム』に対するオマージュでしょう。
確かにこの2つの映画は「平穏な家族に入り込んだ少年が次第に脅威となっていく」という大枠では共通しています。しかし『ファニーゲーム』の一家は何の罪もない人々なのに対して、『聖なる鹿殺し』では父親のスティーブンが少年のマーティン(バリー・コーガン)に対してある罪を背負っています。これが次第に家族の仲をぎくしゃくさせていくことになるのです。そういう意味では同じくミヒャエル・ハネケ監督による『隠された記憶』にも近いですね。
このペアは今回ご紹介する5組の映画の中でもそこまで類似性は大きくないような気がします。影響を与えているとは思いますが、オマージュの域にとどまっていると考えます。
『第三の男』(1949)と『ロスト・マネー 偽りの報酬』(2018)
この2つの映画の類似点はズバリ、「死んだと思っていた人物が実は生きていた」という展開です。『第三の男』ではハリー・ライム(オーソン・ウェルズ)、『ロスト・マネー』ではハリー・ローリングス(リーアム・ニーソン)です。偶然なのかわかりませんが、ファースト・ネームも共通していますね。
そもそもスティーヴ・マックイーン監督の『ロスト・マネー』は1983~85年に放映された Widows というテレビドラマを元にしており、ハリーが自身の死を偽造するストーリーは共通しています。さらにドラマ版では、序盤で強盗を失敗させて他の3人を死なせた人間が the “fourth man” つまり「第四の男」と表現されており、『第三の男』から影響を受けた可能性は高いと思われます。
しかし2人のハリーと恋仲である、女性キャラクターの描写には違いが見られます。『第三の男』のアンナ(アリダ・ヴァリ)は自身の恋人であるハリーが犯罪者だと知っても彼を庇い続け、その態度は映画のラストに至るまで変わりません。ハリーが死んだ後も彼を想い続けるアンナを映して、映画は終わります。
一方『ロスト・マネー』のヴェロニカ(ヴィオラ・デイヴィス)は夫であるハリーの本性を知って、最終的に彼を自らの手で射殺します。映画の前半では夫の死によって打ちのめされていた彼女ですが、彼の生存に勘づいた後は気持ちがガラッと変化するんですね。
個人的には『ロスト・マネー』の結末の方が好きですね。『第三の男』の未練がましいアンナの恋心はわからないでもないですが、「なぜこんなクズ男を引きずり続けるのか」と感じてしまいました。その分、「ロスト・マネー』のラストには溜飲が下がりました。
『ブラック・スワン』(2011)と『セッション』(2014)
この2つの映画は似たような題材を扱ったせいか、映画全体の構造が似通っています。
まず主人公には並々ならぬ情熱を傾けるものがあります。『ブラック・スワン』のニナ(ナタリー・ポートマン)にとってはバレエ、『セッション』のアンドリュー(マイルズ・テラー)にとってはジャズがそれです。
しかし彼らはとんでもない指導者に出会う羽目になります。前者ではセクハラ演出家のトマ・ルロイ(ヴァンサン・カッセル)、後者ではパワハラ指導者のテレンス・フレッチャー(J・K・シモンズ)です。彼らは表向きには「パフォーマンスを向上させるため」だと言ってます。しかし実際には私利私欲のためにルロイはニナにセクハラまがいのことをし、フレッチャーはアンドリューに罵詈雑言を浴びせるのです。
彼らの指導に従っていくにつれ、主人公たちの生活は荒んでいき、精神的に追い込まれていきます。ニナはクラブに行って麻薬にも手を出し始め、妄想や幻覚が見えるようになります。アンドリューはせっかくできた恋人を切り捨ててドラムにのめり込み、コンペティション会場に向かう途中では交通事故を起こしてしまいます。
また2人の主人公は家庭環境にも問題がある、という点でも似ています。ニナの母親は娘に対して支配的であり、アンドリューの家族は音楽を蔑視しています。
しかし最終的に主人公たちは自身の狂気を糧にして芸術的至高に到達します。リリー(ミラ・クニス)を刺殺する幻覚を見たニナは身も心も黒鳥になりきり、完璧な演技を披露して拍手喝采を受けます。またステージ上で大恥をかかされたアンドリューはフレッチャーに対する怒りをばねにして壮絶なドラム叩きを披露することになるのです。
こうしてみると、2つの作品の構成はとても似ていると思いませんか?常軌を逸した指導者に振り回されて心をグシャグシャにされた結果、完璧なパフォーマンスを成し遂げる。これは狂気を散りばめた「スポ根ドラマ」なのでしょう。
しかしその結末には小さな相違点があります。『ブラック・スワン』のニナは自分で自分を刺したことに気が付き、黒鳥を演じきった後に意識を失い始めます。狂気をエネルギーにした代償として彼女は死ぬことになるのです。
一方で『セッション』のアンドリューはドラムを演奏し終わった後、清々しい表情でフレッチャーと目線を交わし、映画は幕を閉じます。この二人はようやく心を通じ合えたということでしょう。
個人的には『セッション』の結末はやや楽観的だと感じてしまったのですが、どうでしょうか?
『道』(1954)と『エヴァの告白』(2013)
今回ご紹介する5組の映画のなかでは、このペアが最も似通っていると思います。中盤の展開が酷似しているのです。
序盤はそこまで共通性が見られません。『道』は主人公のジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)が母親からザンパノ(アンソニー・クイン)に売り渡される場面から始まります。彼女は家族を養っていくために芸人としてお金を稼がなければならないのです。
『エヴァの告白』では主人公のエヴァ(マリオン・コティヤール)がポーランドからアメリカに移住しようとしますが、妹が収容された上に自身も強制送還されそうになり、藁にもすがる思いでブルーノ(ホアキン・フェニックス)に助けを求めます。彼のおかげで何とか入国できましたが、実はブルーノは売春業を営んでおり、妹を引き取るお金が必要なエヴァは売春婦になる羽目に陥ります。
ここからの展開には大きな類似が見られます。まずは『道』の中盤を振り返りましょう。
・ジェルソミーナはザンパノから逃亡を図り、ある夜に綱渡り芸人の「イル・マット」(リチャード・ベイスハート)の芸を観賞する。
→その後ザンパノに連れ戻される。
→合流したサーカス団でイル・マットと出会い、ジェルソミーナは彼に惹かれ始める。
→しかしザンパノとイル・マットは仲が悪く、ケンカが原因で2人は逮捕されてしまう。
→騒ぎによってサーカス団は立ち退きを余儀なくされるが、ジェルソミーナはザンパノに同行することを選び、イル・マットとは別れる。
→ジェルソミーナが釈放されたザンパノを迎えに行って旅芸人の仕事を続ける。
→ある日車を修理中のイル・マットと再会する。
→ここでザンパノがイル・マットを殺害してしまう。
→殺人を隠蔽するために彼の車を転落させて交通事故を装った後、現場を離れる。
では『エヴァの告白』の中盤はどうなっていたか?
・エヴァはブルーノの劇場を立ち去って妹がいるであろう収容所に戻るが、そこでマジシャンのオーランドのショーを観劇する。
→その後ブルーノに連れ戻される。
→その劇場にオーランドがやってきて、エヴァは彼に惹かれ始める。
→しかしブルーノとオーランドは仲が悪く、ケンカが原因で2人は逮捕されてしまう。
→騒ぎによって劇場は閉鎖に追い込まれるが、エヴァはブルーノに同行することを選び、オーランドとは別れる。
→エヴァが釈放されたブルーノを迎えにいって売春業を続ける。
→ある日の夜、ブルーノの留守中にオーランドが訪ねてきてエヴァに駆け落ちを持ち掛ける。
→そこへブルーノが帰宅して2人は揉め始め、最終的にブルーノがオーランドを殺害してしまう。
→彼はオーランドの死体を遺棄する。
どうでしょうか?ほとんど同じといってもいいんじゃないかと思います。確かに『エヴァの告白』を監督したジェームズ・グレイは『道』から影響を受けたとインタビューで明かしています。しかしここまでそっくりにするのならば、『道』のリメイクとして作った方がまだ受け入れられたのではないでしょうか。私は初めて『エヴァの告白』を観たときには、あまりにそっくり過ぎて唖然とさせられたので。
しかしラストの展開では大きな違いが見られます。『道』ではイル・マット殺害後、ジェルソミーナは生きる希望を失ってうつ状態に陥ります。見かねたザンパノは彼女を解放することを選びます。その数年後、ザンパノはジェルソミーナが死亡したことを知り、ヤケ酒をあおって海岸で涙を流して映画は終わります。
一方で『エヴァの告白』ではオーランド殺害後、その容疑がエヴァにかけられているのを知ったブルーノは彼女を庇って警官から暴行を受けます。その後ブルーノはエヴァの妹を連れ出して2人を逃がすことにするのです。
『道』のザンパノはジェルソミーナを見捨てたことの後悔に苛まれるという救いのない末路を迎える一方、『エヴァの告白』のブルーノはエヴァの逃亡を手助けすることに成功し、ラストではエヴァから「あなたはクズなんかじゃない」とも告げられます。
ジェームズ・グレイ監督は『エヴァの告白』でザンパノを救済しようとしたのではないでしょうか。
まとめ
いかがでしたでしょうか?オマージュのレベルに留まるものから構造上の一致まで、様々な類似作品を取り上げてきました。また似たような映画を見つけたら、追記していきたいと思います。
最後の『エヴァの告白』に関しては少し辛口になってしまいましたが、私は「似ているからその映画はダメだ」とまでは思いません。もしそうなら過去作品のリメイクをする意味が無くなってしまうからです。
しかし同じようなストーリーを取り上げるのならば過去作にはない新しい要素を導入するべきだと考えます。全く同じものを作っても意味が無いし、ジャンルのマンネリ化にも繋がってしまいます。
いつか「リメイク映画の傑作」をまとめた記事も書いてみたいですね。