概要
実在の殺人犯であるダグマー・オーヴァーバイの犯行を基にした作品。
監督は『スウェット』のマグヌス・フォン・ホーン。
主演は『MISS OSAKA ミス・オオサカ』のビクトリア・カルメン・ソンネ、『ロイヤル・アフェア 愛と欲望の王宮』のトリ―ヌ・ディルホム。
一人の女性が追い詰められていく過程
この映画のメインテーマは間違いなく嬰児殺人事件でしょうが、本題に入るまでに結構な時間を使っています。
ではそこで何が描かれていたのかというと、ダグマー(トリ―ヌ・ディルホム)のような人間に里親斡旋を依頼するような女性は、どのような背景からそうした行動に至ったのかという部分です。そうした被害者の代表として、カロリーネ(ビクトリア・カルメン・ソンネ)という女性が追い詰められていく様が描かれています。
彼女はイケおじである工場主とねんごろになって妊娠しますが、工場主の母親が息子に圧力をかけて婚約はおじゃんになり、職も失ってしまいます。上流階級への仲間入りという夢を絶たれた彼女は、針を使って自力で堕胎をしようとする始末。最終的に彼女は仕事場で出産する羽目になります。
妊娠というものの肉体的な恐怖というのは、男性には計り知れないおぞましさがあります。しかも妊婦であるにも関わらず、肉体労働をしなければならないという地獄のような現実。こうした状況でどうにもならなくなった母親たちが、最後の手段として里親斡旋所に赤ん坊を預けることになったという背景が描き出されていました。
しかもこの映画の舞台は20世紀であり、うん千年前の出来事ではないというのもまた恐ろしいところ。100年も遡っただけでこうも変わるのかと唖然とさせられます。
以下のサイトによると、どうもこの時代には似たような嬰児殺人事件が世界各地で多発していたようです。ということはこうした現象は普遍的に見られたものだったのでしょう。
懐が広すぎる旦那さん
とはいえ映画を観ていると、どうもカロリーネを完全なる被害者とは言えないのではないかとも思いました。
彼女の元に顔を負傷した夫が帰ってくると、「新しい男が出来たから出て行って欲しい」と怒鳴り散らします。しかし工場主に捨てられた後はサーカス団に所属している夫の元へとまた戻ってくるのです。ちょっと都合が良すぎやしませんかね。
しかも赤ん坊を生んだ後の対応も酷い。夫は自分の子ではないのにも関わらず子供を育てる決心をします。しかしカロリーネはそんな夫に無断で赤ん坊を里親斡旋所に連れて行ってしまいます。自分を捨てた男の血が入った子供を育てたくなかったのかもしれませんが、こうした彼女の身勝手な行動を見ていると、だんだんと夫の方が可哀そうに思えてきます。
最終的にダグマーが殺人犯だと気づいた後も、カロリーネは夫の下に転がり込みます。夫を捨てては頼り、捨てては頼りの繰り返し。いくらなんでも都合よく利用しすぎなんじゃないでしょうか。
ラストで2人は一緒に鏡に映り、夫婦の絆が回復したかのように見えましたが、正直いって冷めた目線でしか見れませんでしたね。本当にこの2人、やっていけるんでしょうか。
嬰児殺しは必要悪か?
さてカロリーネが赤ん坊を預けたダグマーは、実は嬰児を殺害していたことが後に発覚します。
逮捕されたダグマーは聴衆に向かってこう叫びます。「自分は厄介払いを代わりにしてあげていたんだ。むしろ表彰してほしいくらいだ。」
赤ん坊を殺害するシーンは正視に耐えないほどむごいですが、彼女が言っていることもあながち間違いとは言い切れないのが恐ろしいところです。事実、彼女に赤ん坊を預けてきた人たちはみな自力で育てられないからこそ、赤ん坊を持ってきたのですから。現代でいえば保健所に飼えなくなったペットを連れてくるようなものです。当然全ての犬・猫を他の人々に飼ってもらうのは現実的に不可能でしょう。となると、ダグマーがやったことは保健所で犬・猫を殺処分する行為とさほど変わらないのではとも思えてきます。
しかも(これは映画で明確には言及されていませんが)、望まれない状態で生まれてきたとして、果たしてあの社会情勢下で幸福な人生を送れるのだろうかという疑問まで出てきます。冒頭でカロリーネの住んでいた部屋を内見しにきた親子はその典型例でしょう。母親は騒ぐ娘をビンタしてしまいますが、彼女も生まれてきてしまった娘を仕方なく育てているんじゃないでしょうか。
しかしこの映画ではラストに一筋の希望を見せます。カロリーネが孤児院に入れられたダグマーの娘を引き取るのです。これによって孤児院で育てられている子供たちにも一縷の光が差し込むこととなり、映画の後味はそれほど悪くないものとなっています。
余計な要素が多すぎる
というわけで嬰児殺害というテーマに関しては良く描けていたとは思います。しかしそれに対して、他の物語的要素がちょっと多すぎたのではないかとも感じました。
例えばカロリーネの夫は顔を大きく損傷しており、それを利用してサーカス団に所属しています。悪趣味で倫理性を欠いたショーの描写は強烈ですが、これってメインテーマにはあまり関係ないですよね。
それとダグマーの家には彼女の愛人がときどきやってきますが、このキャラクターもいったい何のために登場させたのかがよくわかりません。彼はカロリーネにも怪しい視線を当てますが、その後これといった進展もありませんし、彼がダグマーと縁を切った後は一切登場しなくなります。
さらにカロリーネはダグマーから勧められた薬物を摂取してトリップ状態に陥りますが、こうした薬物中毒の要素も結局、物語上で何の解決も見ないまま放り出されてしまいます。それとダグマーの娘はあの年ごろでまだ母乳を吸っているという歪んだ発育をしてしまっていますが、これも後に触れられることはなくなります。
このようにカロリーネの周囲は様々な”異常”に溢れていますが、どの要素も中途半端に放置されてしまっている印象です。別にメインテーマとは直接繋がりのない要素が一つや二つあっても構わないとは思いますが、ここまで余計なノイズが多いと焦点がイマイチ定まっていない印象を与えてしまいます。
まとめ
というわけでプロット面としては若干トピックが渋滞していたように思いますが、全体としては絶妙な気色悪さに溢れたホラーに仕上がっていたように感じました。
さらにこの映画は視覚的にも強烈なインパクトに満ちています。冒頭で複数の人物の顔がオーヴァーラップする恐怖映像、大きくクローズアップされた眼に映るデンマークの町の風景など、斬新なアイディアに溢れていました。
関連作品紹介:『ライトハウス』(2019)

『ガール・ウィズ・ニードル』の監督であるマグヌス・フォン・ホーンはドイツ表現主義の影響を公言しています。確かに今作のモノクロ映像では光と闇を効果的に使った絵作りがなされていました。
ここで紹介する『ライトハウス』もドイツ表現主義の影響をモロに受けている映画です。予告編を観て頂ければわかると思いますが、両作品のヴィジュアル面には大きな共通点が見られます。
『ライトハウス』はある2人の灯台守の物語です。一人はイーフレイム・ウィンズロー(ロバート・パティンソン)。初めて灯台守の仕事を務める新人の若者です。もう一人はトーマス・ウェイク(ウィレム・デフォー)。かつては船員だったベテラン灯台守です。この2人がある孤島に配属されます。本来は3週間の勤務予定だったのですが、嵐の到来によって迎えの船がやって来ず……。
この映画の物語は靄に包まれたように判然としません。どこまでが現実でどこまでが妄想なのか・・・。こうした怪奇性は映画の最後まで続きます。固定化した解釈を寄せ付けない多重性が備わったプロットですが、しかしこうした難解さというのも作品の魅力となりえます。
私はこの映画を3回観ていますが、未だに自分なりの解釈を確立できていません。その答えを探ろうと何度も観てしまうのですが、その度に狐につままれたような気分になります。
まるで出口の見つからない迷宮のような作品ですが、しかし迷路に迷うのも案外楽しいものです。わかりやすい映画を求める人にはオススメできませんが、映画に斬新さを求める人にはこれ以上ない映画となるでしょう。

ライトハウス (字幕版)